Japanese Studies by SADRIA, Modjtaba and YI, Hyeong Nang

Saturday, November 18, 2006

12月の予定――宣元錫、木村護朗クリストフ、近藤光博、各先生をお招きして――

12月2日 
宣元錫(現代文化研究所契約研究員) 「日本における外国人労働者政策」

12月9日 
木村護朗クリストフ(上智大学専任講師)

12月16日 
近藤光博(中央兼任講師)

Thursday, November 16, 2006

木村幹「日韓のナショナリズムの現地点――北東アジアの「ナショナリスティック・ポピュリズム」現象――」

Saturday, November 11, 2006

大澤武司「「内なる外」から見た日本――「中国帰国者」を取り巻く現実――」

11月最初の日本論は、中央大学政策文化研究所で客員研究員を務めている大澤武司先生をお招きして中国帰国者について講演を行っていただきました。講演は、「「内なる外」から見た日本――「中国帰国者」を取り巻く現実――」という題目で行われました。ここでは、講演の内容とその感想を簡単にまとめたいと思います。

講演の冒頭で先生は、講演の中心となる「中国帰国者(以下、帰国者)」を自分がどのように捉えているのかを結論を先取りする形で説明しました。先生によると、「帰国者」はハンナ・アレントが「パーリア」と呼んだ人々として捉えることができるそうです。「パーリア」とは、社会に生活の拠点を持ちながらもその社会から排除・差別され社会の周辺に追いやられている存在のことです。したがって、「帰国者」は日本に生活の拠点を持ちながらも他の外国人とともに排除され・差別され社会の周辺に追いやられている存在と見なすことができるのです。先生の講演は、「帰国者」が現在の日本で「パーリア」となっている現状を鋭く指摘するものでした。

「帰国者」は、「日中国交正常化(1972年)以降に日本へ帰国した「中国残留日本人孤児」と「中国残留日本人婦人」、ならびに彼ら、彼女らが帰国する際に同伴した家族を含めた人々」のことを意味します。より類型的に説明するならば、「帰国者」は日本による満州の侵攻と満州国の建国の過程で中国に渡った「満州移民体験者」の中から国交正常化以前に様々な形で日本に帰国した「集団引揚者」を除外した「残留者」の中で日本に帰国した人々のことを指します。先生によると、現在のところこのような「帰国者」は合わせて約10万人にも及ぶそうです。しかし、日本で暮らすほとんどの人が「帰国者」の存在について詳しくは知らないと思います。

「帰国者」は、日本に帰国すると政府が運営する施設で定着促進のための研究を受けることになります。そのような定着促進制度としては、「中国帰国孤児定着促進センター」と「中国帰国者自立研修センター」があります。「帰国者」は、始めに「定着促進センター」で日本語研究などを受けた後で、次に「自立研修センター」に移って日本で自立して生活するための研修を受けることになります。しかし、先生はこの定着促進制度が「帰国者」の実情に適ったものになっていないことを指摘しました。経済的自立が「帰国者」が中国から家族を呼び寄せるための条件となっています。よって、大部分の「帰国者」たちは自立研修が不十分なままに経済活動に従事することになってしまいます。そのような「帰国者」のほとんどが日本語を拾得していないなどの理由で低賃金の単純労働者にならざるを得ません。そして、驚くべきことに「帰国者」の約7割が生活保護を受けざるを得ないということです。

しかし、「帰国者」は日本での冷遇に甘んじているわけではありません。現在、日本では「帰国者」による国家賠償請求訴訟が様々な場所(残留孤児と残留婦人による訴訟は合わせて18件に上る)で行われています。その訴訟で「帰国者」が問題にしているのは、「先行行為に基づく条理上の作為義務」についてです。「先行行為」とは日本政府が「危険性の事前告知も危急時の国民保護策の立案もないまま外地の危険地帯へ国策により大量に移民を送出した」ということであり、また、「作為義務」とは日本政府が戦後に「早期帰国実現義務」および「自立支援義務」のことです。具体的にいうと、戦後に日本政府が中国残留者に対して帰国実現や自立支援などの政策を十分に行ってきたのかということがこの訴訟では争われています。2005年7月6日に大阪地裁が判決を下したのを初めとしてこれから「帰国者」による国家賠償請求訴訟の判決が次々に下されていくことになります。

「パーリア」としての「帰国者」の視点から日本の近現代史を見ると、私たちが普段想像するものとは異なった歴史を描き出すことができます。先生によると、それは「棄民」の歴史です。「帰国者」は、これまで日本(政府)によって3回も「棄民」となってきました。第1の「棄民」は終戦前後に行われました。それは戦前の「満州移民政策」と満州における関東軍への「根こそぎ動員」です。ソ連軍が満州に侵攻してきたときの関東軍の「満州放棄撤退作戦」です。そして、終戦直後に日本政府が示した中国残留民の「現地定着方針」です。第2の「棄民」は日本政府が1959年に制定した「未帰還者に関する特別措置法」です。戦後、日中両政府は残留民の問題を人道問題として考え帰国を勧めていました。しかし、日中関係が悪化する中で岸内閣は「特別措置法」を制定することで中国に残留し消息不明となった人々の戸籍を抹消し残留民の問題を政治的に決着しようとしました。そして、第3は日中国交正常化以降の「棄民」です。国交正常化以降も、日本政府は残留民の帰国に積極的ではありませんでした。それは、国交正常化の9年後になってやっと日本政府が残留民の調査を行ったということに象徴されます。また、先に述べたように日本政府の「帰国者」への支援政策は十分なものとなっていません。つまり、「帰国者」は日本政府によって3回も「棄民」されてきたのです。

私にとって、先生の「帰国者」に関する講演はとても意義あるものでした。「帰国者」に関する問題は新聞などでも何度か取り上げられていたのでまったく知らなかったわけではありませんでした。しかし、その歴史的な経緯や現在の状況などについて詳しく知りませんでした。先生の講演によって、私は日本の近現代史の一つの重要な側面を学ばせていただけたと思います。そして、この「帰国者」に関する問題は日本の将来を考えていく上でとても重要な教訓を私たちに教えてくれると思います。それは、「棄民」の問題です。日本の近現代史については、中国や韓国などのアジア諸国への侵略と広島と長崎への原子爆弾の投下が主に議論されてきたと思います。そこでは、日本政府のアジア諸国の人々への加害の問題と第二次大戦による日本国民の被害の問題が主に議論されてきたと思います。しかし、「帰国者」に関する問題は両者とは異なった「棄民」の問題を私たちに提示します。つまり、日本政府が日本国民(市民)に行った加害の問題、もしくは、日本国民(市民)が一部の日本国民(市民)に行った加害の問題です。日本の今後あるべき姿を考えていくためには、日本がこれまで犯した様々な問題を一つずつ反省し教訓としていくことが大切であると思いました。

フフバートル「モンゴルから見た日本」

10月28日の日本論ではフフバートル(昭和女子大学助教授)先生をお招きして「モンゴルから見た日本」という題名で講演を行っていただきました。ここではその講演の内容を簡単にまとめたいと思います。

先生は、モンゴルの地理的な特殊性を説明することからその講演を開始しました。モンゴルと聞くと地平線の向こうまで草原が広がっているというイメージを抱く人がほとんどだと思います。しかし、先生によると草原としてのモンゴルのイメージと実際のモンゴルの地理的環境は異なるのだそうです。モンゴルは、草原もあるが山脈と砂漠もあるとても多様性に富んだ地理的環境を持っています。そして、その気候は周りを山脈に囲まれているせいで湿気が通らずとても乾燥しています。そのような地理的、また、気候的環境はモンゴルの生活に大きな影響を与えています。モンゴルの環境には農業は適しません。したがって、歴史的にモンゴルの人々は遊牧で生計を立てざるを得なかったのです。

日本も大きく影響を受けた中国に隣接しており、また、人々の要望も日本人によく似ていることから、モンゴル人に親近感を抱く日本人は多くいると思います。しかし、先生はモンゴルの文化的な特徴が日本を含む東アジア諸国が持つ文化的な特徴とは大きく異なることを説明しました。モンゴルと東アジア諸国の文化を分ける大きな要因となるのは、人々の生計の立て方が違うということです。つまり、モンゴルの人々が遊牧によって生計を立ててきたのに対して、東アジア諸国の人々は農業によって生計を立ててきました。遊牧と農業という生計の違いは方言に見ることができます。一方で、農業で生計を立ててきた東アジア諸国にはさまざまな異なった方言が存在します。しかし他方で、遊牧で生計を立ててきたモンゴルにおいて方言の違いはあまりはっきりしたものではありません。また、宗教や文字の違いもまたモンゴルと東アジア諸国との文化的な違いを証明するものです。モンゴルがシャマンを主な宗教としてウイグル式文字を使うのに対して、東アジア諸国は儒教を主な宗教として漢字文字を使います。したがって、モンゴルと東アジア諸国は文化的な類似性よりもむしろ異質性を多く持つのです。

そのようなモンゴルと日本との歴史的な関係について考えると思い浮かぶのは、13世紀の蒙古襲来と1939年のノモンハン事件だと思います。この二つの出来事はともにモンゴルと日本との間で行われた戦争ですが、先生によると、多くのモンゴル人は日本に対して悪い感情を抱いていないそうです。しかし、ここで注意しなければならないのはモンゴルが二つの国(地域)に分断されているということです。それらは、外モンゴル(独立国としてのモンゴル)と内モンゴル(中国の一つの自治区)です。外モンゴルと内モンゴルの日本観を単純に同一視することはできません。モンゴルにとって、中国の侵入にどのように独立を維持するかということが歴史的に大きな課題となってきました。大国である中国に小国であるモンゴルが対抗するためには、他の大国に庇護を求めるほかありませんでした。そして、どの国に庇護を求めるかという選択の違いからモンゴルは外モンゴルと内モンゴルに分断されることになります。一方で、外モンゴルはロシア、そして、ソ連に庇護を求めることで共産主義国として独立しました。しかし他方で、内モンゴルは満州に侵略してきた日本に保護を求めることで最終的には中国の一つの自治区となりました。ここで日本の満州侵略がモンゴルの外モンゴルと内モンゴルへの分断に大きな影響を与えていることを理解しなければならないと思います。

現在のモンゴルと日本との関係もまた、外モンゴルと内モンゴルという二つの関係として理解しなければなりません。外モンゴルは、東欧における民主化運動の影響受けて1992年に民主憲法を導入するなど民主化を進めています。外モンゴルにとって、日本は経済的支援者となっています。しかし、内モンゴルにとって日本との関係はより複雑です。内モンゴルは、かつて中国に対抗するために満州に侵略してきた日本に積極的に協力しました。そして、1947年に中国の自治区となった時に重要な役割を果たした人材のほとんどが日本占領下で育てられた人材でした。その意味で内モンゴルと日本はとても強い関係を持っています。しかし、中国の一つの自治区に過ぎない内モンゴルは中国の意向を無視して日本との関係を自由に考えることができるわけではありません。外モンゴルと日本との関係に比べて、内モンゴルと日本との関係はより複雑なのです。

ここでは、フフバートル先生の講演の内容を簡単にまとめました。最後に、簡単な感想を述べさせてもらいたいと思います。私が先生の講演を聴いて特に興味深かったのは次の二点です。第一は、モンゴルが外モンゴルと内モンゴルに分断されており日本もその分断に責任を持つということです。モンゴルが外モンゴルと内モンゴルに分断されているということはこれまであまり意識することはありませんでした。ましてや、日本の満州侵略がその分断に大きな影響を与えたということもこれまで考えたことがありませんでした。自分自身の歴史認識の貧弱さを反省しなければならないと思いました。そして第二は、モンゴルの社会が支族を単位として構成されているということです。これまで私は、社会は個人を単位として構成されるという考え方を当たり前として考えてきました。もちろん、個人集合としての社会という社会の考え方とは異なった考え方を知らなかったわけではないのですがあまり意識してきませんでした。しかし、先生によると、モンゴルの社会は支族(外モンゴルでは49、内モンゴルでは86)が重要な役割を果たすそうです。社会は必ずしも個人を単位とするわけではないのです。

文責 田中

11月の予定――大澤武司、木村幹、山室信一、各先生をお招きして――

11月11日 
大澤武司(中央大学客員研究員) 「「内なる外」から見た日本-「中国帰国者」と戦後日本社会」

11月18日 
木村幹(神戸大学教授) 「日韓のナショナリズムの現地点」

11月25日 
山室信一(京都大学教授) 「空間視点からみる日本と東アジア―政策資源および対象としての空間」

Tuesday, October 24, 2006

田中比呂志「日中のまなざし―近世から近代にかけての日中関係を考える」

10月21日の日本論は、東京学芸大学の田中比呂志助教授をお招きし、日本が中国にどう見られてきて、日本が中国をどう見てきたか、についてお話をしていただきました。どの時点で日本の中国を見るまなざしが変わり始めたのかの過程を、主に文化と文明の高低差とビジュアルを使って説明をしてくださいました。以下、田中先生の講演のまとめです。

田中先生によると、まず、前近代においての日中のまなざしは貿易商品に見ることができます。江戸時代初期、日本は銀・銅・海産物などの商品を輸出していたのに対して、生糸・絹織物・書籍などの貴重品を中国から輸入していました。このことからわかるのは、情報や技術の流れが中国→日本であったことです。博多、那覇、長崎に形成された華人街も中国の文化を取り入れるための窓口でした。そこから、医学、技術、国際情報などを得ました。日本は中国文化・文明を吸収しようとしていました。

この関係は日本の建築物にも現れています。徳川政権時代に造られた日光東照宮でも見ることができます。それは建物の天井に描かれている「龍の爪の数」です。中国王朝の建物には龍の爪が5つあります。那覇の建物には爪が4つ、そして日光東照宮の「鳴龍」では3つとなっています。そこに日本が中国王朝に遠慮をしていたことがうかがえます。

その後、明治日本では国学と西洋文明が発展し、日本における中国のまなざしの転換期が訪れます。しかし、当時の中国知識人の日本観はまだ浅いものでした。日清戦争を経験した後、20世紀初頭になるとそのまなざしもだんだんと変わってきました。日清戦争で中国が負けたのは、中国が古い専制制度であり、日本が勝ったのは最新の立憲制度へと転換したからだ、と理解した中国は、日本に多くの中国人留学生を派遣し、西洋の知識、主に法と政治、を学ばせました。その結果、日中間の文化・文明のまなざしの転換が起こりました。ただし、中国のまなざしは日本を警戒しながら日本に学ぶものでありました。

中国人留学生は日本で偏見と立ち向かわなければなりませんでした。日本では既に、中国に対するまなざしは敬意から劣等へと転換していたからです。例えば、支那人を野蛮人と並列したり、不吉なものと結び付けられて考えられていました。

このように、日中のまなざしは近代期に入ると逆転しますが、それは必ずしも、日本が中国を見ていた「まなざし」で中国は日本を見ていないしその逆も同じということです。つまり、まなざしが均等的ではなかったことがわかりました。まなざしが均等的ではないこと、そしてまなざしの逆転のプロセスを理解することは将来の日中関係を考えるための材料の1つになるのではないでしょうか。

<参考文献>
・小葉田淳「唐人町について―近世初期中国人往来帰化の問題」『日本歴史』9号、1947年
・小葉田淳『金銀貿易史の研究』、法政大学出版局、1976年
・中島楽章「16・17世紀の東アジア海域と華人知識層の移動―南九州の明人医師をめぐって」『史学雑誌』113編12号、2004年
・松本英紀訳注『宋教仁の日記』、同胞舎出版、1989年
・浜下武志・川勝平太編『アジア交易圏と日本工業化1500-1900』、リプロポート、1991年
・可児弘明『近代中国の苦力と「豬花」』、岩波書店、1979年
・さねとうけいしゅう『増補 中国人日本留学史』、くろしお出版、1981年
・荒川清秀『近代日中学術用語の形成と伝播―地理学用語を中心に』白帝社、1997年

文責 深田

Wednesday, October 18, 2006

尹健次「ナショナル・アイデンティティの作られ方とアジア観」

尹健次(ユン・コンチャ)神奈川大学教授をお招きして「ナショナル・アイデンティティの作られ方とアジア観」という題目で講演していただきました。その講演の概要は次のようなものでした。

教授は「ナショナル・アイデンティティ」を研究するに至った自らの歴史を振り返ることから講演を開始しました。教授は在日朝鮮人の2世として生まれました。しかし、大学に入るまでは自分が在日朝鮮人であるということを強く意識することはなかったそうです。大学に入り本格的な研究を進める中で在日朝鮮人である自分自身に向き合うことになりました。それ以来、日本と朝鮮という二つの社会に身をおく人間として「ナショナル・アイデンティティ」の問題に取り組んできたそうです。

「あなたは日本人なの?」。教授は新学期の始めにいつも学生にこの質問を投げかけることから授業を開始するそうです。教授によると、学生のこの質問に対する反応は大きく二つに分けることができるそうです。一つは、答えに窮して黙り込んでしまうという反応。二つは、学生は教授がふざけて質問をしていると思い込んで怒るという反応。学生がこのような反応を示すのはこの質問に答えることがとても難しいからです。日本人にとって日本人であることは、改めて考えるまでもない当たり前のことになってしまっているのです。だからこの「あなたは日本人なの?」という一見すると素朴な質問に答えることができない。教授は、これこそが「ナショナル・アイデンティティ」が持つ性質を最もよく現していることを強調しました。

教授によると、「ナショナル・アイデンティティ」とは国民教育を通して強制的に作られる国民意識のことです。義務教育という言葉がこの国民教育の性質を最もよく表しています。国民教育は、国民の義務より性格に言うと国民に強制されるものなのです。そこで人々は自分の知らない間に、そして、何の違和感も持つことなく国民として育成されるのです。「生まれ」を選ぶことができないように、人々は「国民(教育)」を選ぶこともできないのです。このような国民意識を形成する国民教育は、世界中の国々、つまり国民国家において行われてきました。ここで、注意しなければならないのは国民教育が常に社会における多数派の教育として行われてきたということです。

つまり、誰しもが「ナショナル・アイデンティティ」の枠の中にとらわれている。しかし、「ナショナル・アイデンティティ」の枠から全く逃れられないわけではない。教授は、「ナショナル・アイデンティティ」を再構成する可能性を次のように説明していました。大学生ごろになって自分で物事を考えることができるようになったときに、自分自身、そして、自分の「ナショナル・アイデンティティ」について再構成することができる。「ナショナル・アイデンティティ」は、その性質上、国民国家と他者という二つのキーワードをあわせ持っています。第一に、「ナショナル・アイデンティティ」は国民国家の歴史と深い関係を持ちます。そして、第二に「ナショナル・アイデンティティ」は国民とは区別された他者を作ることで国民を形成します。したがって、「ナショナル・アイデンティティ」を再構築する上では、国民を作る上で利用された他者の視点から国民国家の歴史を捉え直すことが必要となります。

国民国家と他者という「ナショナル・アイデンティティ」を再構築する上で不可欠な二つのキーワードから日本の「ナショナル・アイデンティティ」に関する議論を見るとその独善性を理解することができます。教授によると、日本人がその「ナショナル・アイデンティティ」を構築する上で最も利用したのは朝鮮人という他者でした。しかし、現在の「ナショナル・アイデンティティ」に関する議論では他者としての朝鮮(人)は全く考慮されていません。「日本文化論」や「日本型経営論」はもとより、日本の思想の根本にある吉田松陰の思想を見ても朝鮮(人)に関する記述は見られません。日本は、その歴史を見たときに朝鮮(人)から大きな影響を受けています。それにも関わらず日本の思想は朝鮮(人)について全く関心を持たないのです。

日本の近代史は、主に次の三つの要素を持つものとしてまとめることができます。それらは、西洋崇拝、天皇制イデオロギーと朝鮮(アジア)侵略です。日本の近代は、植民地の拡大を目指す西洋列強からどのようにして国を守るのかという問題意識から出発しました。そこで、近代日本がとった戦略は二つあります。第一に、前近代的な天皇制を復活させることで社会の統合を図ったことです。第二に、西洋列強に対抗して植民地を獲得するために朝鮮(アジア)を侵略したということです。これら三つの要素が近代日本を支える重要な柱となってきました。しかし、日本の教育ではこれらのこと、特に、朝鮮侵略のことについて充分に教えません。だから、学生たちは現在の朝鮮半島が南北に分断された責任は日本にあるという事実について全く知らないのです。

最後に、教授は学生が「ナショナル・アイデンティティ」を再構築する上で必要なことと今後への期待について次のように指摘しました。人々は「生まれ」、そして、「ナショナル・アイデンティティ」を選ぶことはできません。しかし、「ナショナル・アイデンティティ」を再構築することはできます。「ナショナル・アイデンティティ」を再構築するためには、自らの「出自」に対する歴史認識を持つこと鍵となります。自分自身にとって当たり前となってしまった「出自」を捉えなおすことによって、マジョリティの中からもマイノリティに配慮できる人が出てくることが期待できます。

<参考文献>
『日本国民論』筑摩書房、1997年
『現代韓国の思想』岩波書店、2000年
『もっと知ろう朝鮮』岩波書店、2001年
『ソウルで考えたこと―韓国の現代思想をめぐって』平凡社、2003年

文責 田中

Sunday, October 01, 2006

10月の予定――尹健次、田中比呂志、フフバートル、各先生をお招きして――

2006年度後期の日本論は、学外の講師をお招きして講演を行っていくことで授業を進めていきたいと思います。

10月14日 
尹健次(神奈川大学教授) 「ナショナル・アイデンティティの作られ方とアジア観」
<参考文献>
尹健次『もっと知ろう朝鮮』(岩波ジュニア新書)岩波書店

10月21日 
田中比呂志(東京学芸大学助教授) 「近世期の東アジアから見た日本と日本の離陸(take off)」

10月28日 
フフバートル(昭和女子大学助教授) 「モンゴルからみた日本」

Tuesday, September 26, 2006

日本論(サドリア、モジュタバ教授、李熒娘教授)とは

「日本論」(中央大学大学院総合政策研究科)は、複数の教員が持ち回りで授業を担当し、そして、学生が積極的に参加することを特徴としています。また、学外の講師を招いて講演を行なっていただくことでよりダイナミックな授業を目指しています。2006年度の後期は、モジュタバ・サドリア教授と李熒娘助教授が担当となり、「外から見た日本」をテーマとして授業を行います。

なお、過去の「日本論」の成果について以下の参考文献をご覧ください。

中央大学大学院総合政策研究科 日本論委員会編『「日本論」―総合政策学への道―』、中央大学出版部、2000年9月

中央大学大学院総合政策研究科 日本論委員会編『「日本論2」―政策と文化の融合―』、中央大学出版部、2002年12月