Japanese Studies by SADRIA, Modjtaba and YI, Hyeong Nang

Tuesday, October 24, 2006

田中比呂志「日中のまなざし―近世から近代にかけての日中関係を考える」

10月21日の日本論は、東京学芸大学の田中比呂志助教授をお招きし、日本が中国にどう見られてきて、日本が中国をどう見てきたか、についてお話をしていただきました。どの時点で日本の中国を見るまなざしが変わり始めたのかの過程を、主に文化と文明の高低差とビジュアルを使って説明をしてくださいました。以下、田中先生の講演のまとめです。

田中先生によると、まず、前近代においての日中のまなざしは貿易商品に見ることができます。江戸時代初期、日本は銀・銅・海産物などの商品を輸出していたのに対して、生糸・絹織物・書籍などの貴重品を中国から輸入していました。このことからわかるのは、情報や技術の流れが中国→日本であったことです。博多、那覇、長崎に形成された華人街も中国の文化を取り入れるための窓口でした。そこから、医学、技術、国際情報などを得ました。日本は中国文化・文明を吸収しようとしていました。

この関係は日本の建築物にも現れています。徳川政権時代に造られた日光東照宮でも見ることができます。それは建物の天井に描かれている「龍の爪の数」です。中国王朝の建物には龍の爪が5つあります。那覇の建物には爪が4つ、そして日光東照宮の「鳴龍」では3つとなっています。そこに日本が中国王朝に遠慮をしていたことがうかがえます。

その後、明治日本では国学と西洋文明が発展し、日本における中国のまなざしの転換期が訪れます。しかし、当時の中国知識人の日本観はまだ浅いものでした。日清戦争を経験した後、20世紀初頭になるとそのまなざしもだんだんと変わってきました。日清戦争で中国が負けたのは、中国が古い専制制度であり、日本が勝ったのは最新の立憲制度へと転換したからだ、と理解した中国は、日本に多くの中国人留学生を派遣し、西洋の知識、主に法と政治、を学ばせました。その結果、日中間の文化・文明のまなざしの転換が起こりました。ただし、中国のまなざしは日本を警戒しながら日本に学ぶものでありました。

中国人留学生は日本で偏見と立ち向かわなければなりませんでした。日本では既に、中国に対するまなざしは敬意から劣等へと転換していたからです。例えば、支那人を野蛮人と並列したり、不吉なものと結び付けられて考えられていました。

このように、日中のまなざしは近代期に入ると逆転しますが、それは必ずしも、日本が中国を見ていた「まなざし」で中国は日本を見ていないしその逆も同じということです。つまり、まなざしが均等的ではなかったことがわかりました。まなざしが均等的ではないこと、そしてまなざしの逆転のプロセスを理解することは将来の日中関係を考えるための材料の1つになるのではないでしょうか。

<参考文献>
・小葉田淳「唐人町について―近世初期中国人往来帰化の問題」『日本歴史』9号、1947年
・小葉田淳『金銀貿易史の研究』、法政大学出版局、1976年
・中島楽章「16・17世紀の東アジア海域と華人知識層の移動―南九州の明人医師をめぐって」『史学雑誌』113編12号、2004年
・松本英紀訳注『宋教仁の日記』、同胞舎出版、1989年
・浜下武志・川勝平太編『アジア交易圏と日本工業化1500-1900』、リプロポート、1991年
・可児弘明『近代中国の苦力と「豬花」』、岩波書店、1979年
・さねとうけいしゅう『増補 中国人日本留学史』、くろしお出版、1981年
・荒川清秀『近代日中学術用語の形成と伝播―地理学用語を中心に』白帝社、1997年

文責 深田

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